日本トルコ合作映画海難1890の舞台となった樫野埼。
おっちゃん
助手くんこの灯台は外にある階段から登れるよ〜
行ってきます!!
助手
樫野埼灯台
樫野埼灯台の横にある螺旋階段をのぼると、近くに灯台の大きなライトが出てきます。
この展望台は無料で開放されています。
樫野埼灯台から眺める串本町。
樫野埼灯台旧官舎にて
江戸幕府と英・仏・蘭・米と交わした江戸条約により、外国貿易船の港湾出入りの
安全保全目的で、全国に8台の燈明台が備えられました。
そのうちの一台が樫野埼灯台でした。
イギリス人技術者リチャード・ブラトンの設計。
彼の技術指導の下、地元各層職人・村人を動員して明治3年完成。
灯台と合わせて、英人技術者たちの寄宿舎として灯台官舎が建築されました。
樫野埼灯台とともに日本最古の石造建築です。国登録有形文化財でもあります。
樫野埼岬の対岸に流入する清流古座川沿いに産出する宇津木石は火成岩でありながら、
比較的柔らかく加工しやすいのでこれを建材としました。
また、重厚な木製扉・暖炉・フロックコート掛けなどを英国から取り寄せ、しつらえました。
トルコ軍艦エルトゥールル号
明治23年。暴風雨・高波の樫野埼岬沖合を航行中のエルトゥールル号は「海金剛」とも称される大岩礁地帯に進入、座礁し、大爆発を起こしました。
死者・不明者587名。島民は命をかえりみず崖を下り、生存者を担いで崖を登り寺などに収容し、浴衣や非常用の鶏まで差し出し救助しました。
それでも助けられた者は69名に過ぎませんでした。
そのうち灯台には自力で崖をはいあっがて来た者がおりました。ひとりの遭難者が窓ガラスを割って設計室に進入。事態を知った灯台守が懸命の治療に当たりました。その1時間後もう一人が、さらにまたもう一人と灯台の明かりを頼りに割れた窓ガラスから入ってきました。
骨折はもちろんのこと、目が潰れている者、耳がそぎ落ちている者、手首を失っている者など重傷者ばかりでした。
初めて見る大男の外国人は出血はなはだしく、まるで赤鬼のごとき様相でありました。
灯台守は恐怖と闘いながら、手当に全力を尽くしました。しかし、言葉が通じずどこの国の遭難者か皆目わからないまま明け方には都合9名を収容しました。
意識のはっきりした遭難者に常備されていた世界国旗要覧を見せたところ、懸命に指し示した旗は、トルコでありました。
この出来事が、日本とトルコの深い繋がりの始まりとなったのです。
次回は海の見える駅です。